2/2017
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昭和42年,電気機器メーカーの亀戸工場に入社した。入社のきっかけは,生まれも育ちもこの下町亀戸であったことと,既に兄がこの会社で働いていたことであった。この会社では,ものづくりの現場で働く者の中から優秀な人材を対象に入社後3年間の技能者養成所を開設しており,兄もその中で勤労勉学していた。他の電気メーカー同様に「金の卵」として採用した中学校を出たばかりの若者が,働きながら技能と知識を修得できる工場内教育システムを早くから設けていた。さて一日の始まりは,工場独自の亀戸体操である。体操の号令が仕事始め前に各職場のスピーカから流れ始め,職場建屋内の安全通路上で一列横並びとなり行われる。その後は各職場(組)単位での組朝礼が始まる。現場管理監督者の職制で「組長」と呼ばれる「親父」のあいさつから始まる朝礼であった。朝礼の中身は,なんの変哲もない,日々の新聞紙面からの世間話だったが,現場で働く職人には「これから一日が始まる」と言う緊張感がいつもあったことを覚えている。組長にとっては,その日の部下一人ひとりの心理・健康状態を見る大切な仕事のスタートとなっていた。現場ではさらにグループ化され職人の要として「棒心(ぼうしん)」と呼ばれている取り纏め者がいた。その棒心から組朝礼後にその日の作業内容が指示され作業(生産)が行われていた。工場に働く従業員は3,000人弱で,国鉄(現在の-1-JR)総武線亀戸駅から東武線で乗り換え一つ目の亀戸水神駅にあった。国鉄亀戸駅からの満員電車はこの駅でガラガラとなる。この工場は新製品を多く手掛け,会社ではマザー工場としての位置づけがあった。ここから生まれた産業用,家庭用電気機器製品は他の工場へ量産製品として製品移管されて行く。その為,製品毎の部門が多く,いわば町工場の集まりのようであった。こんな工場の雰囲気が,入社したての私にとって毎日が活き活きとものづくりをしている職場と感じさせていた。現場の職人は,仕事の始まる前に段取りや自分の使う工作機械・治工具の点検・注油といったアイドリングを済ませ,その機械や作業台の傍でタバコをふかしていた。このような,昔の言葉でいう「矩形運動」を日々実践していた。職人は気性が荒く,当時はまだ工場内で統一した作業手順も定まっていなかったことから,「俺のやり方」,「俺流」,「俺の時間」で仕事をしていたが,決して「できない!」という言葉を発しないプライド(職人気質)を持っていた。会社ではこの職人気質をどの職場にも浸透させ,品質の高い製品を作り上げていた。ものづくりの世界では「働き甲斐」と「やり甲斐」が,職人にとって必要不可欠な要素であると教えられた。今や日本国内では製造業に携わる割合が30%と,昭和の時代で日本経済を支えてきた自負が跡形もない。品質の高い製品は,高い技能を有した技能者によって作り上げられる。我々職人が作り出す自黄綬褒章を受章ならびに卓越した技能者(現代の名工)として第3回ものづくり日本大賞を受賞「現代の名工展2016in東京」に選ばれ参加された常泉 善男ものづくりとの出会い当時の「ものづくり力」は現在も脈々と 息づいているのだろうか万象我師・ひとづくり

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