2/2017
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ところで,リスクベースの現代社会にリスクゼロはあり得ないとされる。労働の現場では,危険の残る仕事が教育訓練を行ったという理由で労働者に委ねられる。ならば,リスクの現実として生ずる事故の責任を企業(トップ)が負うと考えられて当然ではないか。実は,これは,過失の如何によらず,事故の責任(補償・救済としての結果責任)を経営者のトップが負うとする無過失責任の考え方である。グローバルに共有する事故の責任原則だが,意外にもわが国の労働安全の法体系は基本的には無過失責任の考えで作られている。もともと“不確実”を扱う賭けのルールがあって,リスクとは,賭けの失敗の時に果たすべき責任を,どのように責任能力として準備するかを明確にするための指標である。過失責任は,責任能力のない弱者に結果(事故)の責任を負わせることで混乱を生じてきたと考えていいだろう。欧州規格の理念として,“負いきれない責任は負わせない”があると聞く。そこで,無過失責任とされる労働安全には,災害による労働者の被害救済の責任を企業(トップ)が負うと決めることで混乱を防ごうとする意図がある。事故の責任は,単なる結果責任ではなく,事故を,“事故前の停止の失敗”とする共通の認識があって,その限界でやむを得ず生じた事故に対する補償・救済の責任者として,経営者トップの立場が明確となる。しかし,事故を結果責任とするわが国では,事故の責任は,法律が関与して複雑である。安全の理由を整えて,事故の責任に予め系統だって対処するのは殆ど不可能である。事故の可能性が残る限り,トップは事故前に停止を強制し,自らに掛かる事故の責任を回避すること以外に方法はない。トップによる停止の強制に異論を唱える法律はあり得ず,よって自らの責任で停止を解くこと(運転再開)も自由である。改めて,結果(事故)をトップの無過失責任とすることが何よりも重要である。事故前の停止の要求(安全の責任)が,安全管理体制による-24-合意(正当性)を以て実行されるからである。また,安全工学の体系化を目指す学問的立場から,停止による安全原則は普遍的であり,複雑な結果責任の議論への介入を避ける条件で安全工学の体系化が可能となると期待される。いずれにせよ,事故前の停止原則を共有し,安全の証明性(限界の証明性:許容リスク)のグローバルな共通化が何よりも重要だということである。ところで,わが国では,リスクアセスメントに事故の免責を期待する人が多い。安全対策の限界で生じた事故の責任は,日本語の「責めに任ずる」というような結果に対して負うべき「責め」ではなく,結果(事故)の予測に対する説明責任に応えて,救済の準備を整えるとする応答責任(responsibility)である。結果としての救済の責任は免除されないという欧州安全の整合性については,著者が1984年に初めてフランスの国立労働安全研究所INRSを訪問したときに教えられたことである。当時の機械研究部長Dr.Vautrinが特に強調していたのは,安全の中心課題は合理的な救済制度を構築することであった。さらに,「安全は,事故を防ぐ/減らす/被害を小さくすること以上に,救済制度の合理性を担保する条件として規格化・整合化して企業に均しく守らせることに意味がある」との説明であった。かくして労働安全のトップの責任は,安全ルールの要求に応えること(安全の説明責任に応える責任能力)と,結果として生ずる被害の救済要求に応える責任(結果としての事故の責任)であり,ともに,そのための必要(requirement)に応えるべき応答責任(responsibility)に位置づけられる。後で示すように,欧州の安全のルールは,事故の前の停止を安全の責任としており,その追及の限界(State of the art)で生ずる事故前停止の失敗が事故の責任の対象になるという関係で責任が階層で示される。事故の責任と安全の責任は,ともにトップの責任だが,特に,トップの責任で技術者に要求するインタロック(事故前の停止手段)は,残留リスクに伴う事故の可能性を減少させるのに大きな効果を示すであろう。3.トップの無過失責任

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