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火縄銃の中で大筒と呼ばれているものの各国に同じように火縄銃は伝わっていると思われるが、これらの国にも日本からたくさんの火縄銃が輸出されたという記録がある。日本で鍛造した火縄銃は彼らの作るそれよりもはるかに性能がよかった故に日本から輸出されたのだろう。もうひとつ特記したいのは、国友の地に生まれた組合と分業体制のことである。戦国時代3,000丁の火縄銃が一度に発注されたとすれば大勢の刀鍛冶が必要となる。大勢集まれば、それを束ねる組織が必要になり、加工についても分業化を考えることになる。火縄銃の鍛冶が受け持つ銃身加工、木加工の銃床、引き金部のからくり加工、火薬の製作調合といったことであろう。これら分業化のなかでそれぞれ組織が出来て大量生産に対応していったのだ。徳川家康は大阪城の戦いで火縄銃はおろか、大筒を300門使ったといわれている。当時の製鉄技術からするととんでもない鉄の量をつかったものである。また、当時の鍛冶屋の仕事を振り返ってみると、火縄銃を見よう見まねで作っているわけであり、その苦労は大変なものがある。瓦金の加工法は先の図に記したが、そのほかにも、引き金の仕掛け部分にはバネやぜんまいが使われていて、この加工にも苦労したことと思う(この工法は後にからくり人形などの仕掛けに利用されている)。さらに、種子島には火縄銃と同時に鋏が入っていたといわれている。長さの中央部に支点(要)のある鋏である。この鋏は刃と刃が交差して切れるわけだが刃の角度が大変難しく、当時の鍛冶屋は難儀をして刃の角度を調整したといわれている(シャー角が一定になるような刃のソリ加工1))。-46-このように種子島に突然入ってきた鉄砲は日本の刀鍛冶を驚かせたが、それまでの刀鍛冶の技能・技術が今まで見たこともない仕掛けの入った鉄砲を二年たたないうちに完成させたのに加え、関が原の戦いという時期に何千丁もの銃の注文に対応してしまうという組織も作った。その管理能力は刀鍛冶時代に培ってきた刀鍛冶の親方衆の知恵によるところが大きいと思われる。現在の品川にお台場というところがある。台場とは大砲を据えるための砲台のことであり、1853年ころから五つのお台場が幕府により作られた。一番台場には大砲が28門据え付けられたそうである。もちろん幕府による江戸湾防備のためで、黒船に脅しをかけたのである。大砲のような大きなものを作るためには大量の鉄を必要とするが、当時は江戸時代末期に西洋から入ってきた反射炉により銑鉄を溶解して得ていた。今我々が使っている鉄は溶鉱炉で鉄鉱石を還元・溶融して作っているが、このような方法で本格的に製鉄が国産化されたのは、明治になって1901年に八幡製鉄所ができてからである。我が国における鉄鉱石による鉄の製法のルーツは、朝鮮から入ってきていた。それは、5世紀後半から6世紀初頭に鉄鉱石精錬法として技術移転されたといわれている。伝わった場所の一つは琵琶湖南、瀬田川東の現在の名神高速道路周辺であり、そこは7〜8世紀にかけての古墳時代から飛鳥・奈良時代には大製鉄地帯であった。おそらくこのような製鉄地帯の覇権を握った豪族が鉄製武器を利用し、日本諸国を統合して日本の骨格を作っていったのであろう。こうして鉄鉱石を原料とした製鉄法が始まり、

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