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大建築学の屋根取付方法から抜粋般に普及するには時間がかかった。金属屋根葺材の代表である亜鉛鉄板は明治初年より輸入され、すでに1875年(明治8年)には札幌市のビール工場の建物にイギリス製の亜鉛鉄板が使用されていたが、国産化はもっと後のことである。これを葺いた職人が誰かはわからないものの、日本人で手伝った人がいれば、これが板金屋のはしりであろう。その時、棟包や水切はどんな工具で加工したのであろうか。いずれにしても、今我々が行っている施工方法の元となる技術が、このころ海外からどんどん入ってきたのである(ハゼ加工はこのときに日本に来たと考えられる)。擬洋風建築という建築用語があるが、明治の初めに西洋建築様式が研究され、大工さんによる西洋建築がたくさん建てられた時代である。このことは、地方でも多くの事例がある。板金の施工法もこの頃飛躍的に開発されただろう。こうしたことが記録してある書物に大正時代発刊の大建築学(三橋四郎著)がある。この屋根編の中に谷樋の納まりとか、小鈎(こはぜ)の加工種類その他雨量計算にいたるまで見ることができる。当時の建築関係者にとって貴重な書物であった。亜鉛鉄板は、1906年(明治39年)官営八幡製鉄所において国産化が始まった。1919年(大正8年)「屋根制限令」の施行に伴う屋根の不燃化、関東大震災および終戦後の復興資材としての活用等に続き、1953年(昭和28年)八幡製鉄戸畑工場での連続溶融亜鉛メッキ方式採用に至って長尺屋根の幕開けを迎え、それ以降着色亜鉛メッキ鋼板を加え金属屋根の主流として増加の一途をたどってきた。長尺亜鉛鉄板の供給に呼応して、金属屋根葺工法も、1953年(昭和28年)の大波葺工法に始まり、1954年(昭和29年)立平葺、1955年(昭和30年)長尺心木なし瓦棒葺工法、そして1963年(昭和38年)には折板構造屋根工法などと次々に開発された。瓦棒葺きについては明治時代初期から欧米より波板(生子板)の輸入とともに、技術導入もされている。昭和になって、長尺心木なし瓦棒葺工法の開発により、昭和30年長尺瓦棒時代を築いた。折板は下地構造を必要としない革命的な屋根工法で、東京オ-44-リンピック施設へ採用され、それが契機になり今日の確固たる市場を確立した。日本の鉄の生産が大きく発展したのは、戦国時代に種子島へ火縄銃が伝わって以降であろう。近代的な武器として、日本刀10本分の鉄で火縄銃1丁が出来たそうである。火縄銃が日本に伝わったのは1543年8月25日、嵐により種子島に一艘の中国船が漂着したことに始まる。その船に乗っていたポルトガル人から、初めて日本に鉄砲が伝えられた。時の島津公は刀鍛冶職にこれを作らせた。将軍足利義晴も近江の国の国友鍛冶に鉄砲生産を命じた。鍛冶職人たちは、銃身端部にあるネジの加工で壁に突き当たってしまった。当時の日本にはネジというものは無かったのである。雄ネジは見よう見まねで鍛造加工できるが、銃身の内部を螺旋に鍛造加工する方法については考え付くことが出来なかった。鍛冶の親方連中は集まって協議するが、その方法は考え及ばなかった。たまたま若い鍛冶職人の一人が、刃先が欠けた小刀で大根をくりぬき、内側に刃筋がつくこと3. 日本の鉄の歴史

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