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金沢城石川門隅櫓屋根一階部分二重屋根の下側部分二重屋根の下側の屋根の拡大写真:重ね葺き、釘打ち状態がわかる一階の屋根のうち、屋根が二層になった上屋根と下屋根の間の下側の屋根の部分である。人間も入りにくく施工しにくいと思われる。鉛葺き屋根は重ね葺きで、釘止めの施工がそこだけ現存している。おそらく当時の施工では、まだはぜによる工法が開発されていなく、瓦と同様重ねによる施工しか出来なかったと思われる。金属による屋根施工物件も少なく施工方法もはぜという改善まではいかなかったであろう。当時の銅板葺きは、瀬戸定光寺のように材料を重ね葺きする工法で施工されており、ここの鉛葺きも同様に重ね葺きの施工であった。写真でわかるように、重ねはどぶ板(瓦屋根の水が流れるところ)まで下げて重ねを多くとっている。では、今、現在当たり前になっているはぜによる施工はいつ頃からあったのか。その起源は、現存するものでは、明治になってから施工された建物にしか見ることが出来ない。金沢城の鉛葺き屋根のように板厚2~3mmであるが柔らかい材料であり、はぜを掛けて施工できるはずなのに、金沢城の石川門隅櫓の屋根の葺き替えは、はぜが立派に施工されているが葺き替えがしてないと思えるところが一部あり、当時ははぜによる施工方法は無かったと思うしかない。とすれば、1790年代にははぜによる施工方法は金沢には無かったといえる。-24-明治になってから西洋の建築様式とともに金属による屋根施工も入ってきた。その施工方法の中にはぜによる施工方法も入っていたと思われる。しかし、明治の初めころといえば日本では機械による金属圧延がまだ出来ない時代であるから、輸入品の材料でしかはぜ加工ができなかったかと思う。(日本における銅板を手加工で圧延する法には板厚0.888mm位まで、それ以上薄く圧延することは難しい。したがってその0.888mmの板をはぜ加工することは屋根葺工法としては考えられない、その時代日本にははぜ加工という技法は無かったと考えられる。)明治初年、ロール圧延の輸入機械でコインが造幣局で作られるようになったが、建築用銅板の圧延ロール機はもっと後になってからであったと思える。西洋文化が鹿鳴館時代の文明開化のなかで、建築様式と同時に施工方法も西洋のものがどんどん入ってきた。長野の開智学校のシンボルである塔の屋根はまったくの西洋様式であるが、造ったのは日本の大工である。西洋様式をまったく知らない大工が挑戦して苦労しながら建てたのである。屋根はその大工が葺いたのか、葺き方を見てきた大工が板金屋に教えたのか、誰が葺いたかわからない。その頃板金4. 明治時代の金属屋根

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