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2.6 初めての転職・・大企業から倒産の危機にある中小企業へ 日立に入社して14年が過ぎすでに32歳。経験を積み主任となって6年目だったある日,突然日頃直接話をすることもない‘偉い人’工場長に呼ばれた。何事かと駆けつけると,「京都にあるハイテク会社の社長が来て経営支援要請があった。支払金の前倒しや単価調整かと思ったら,いきなり君を指名しての転属要請だった。どうする?」というもの。そこで私は,「輸入部品国産化に当たって国内に十分な技術がなかった時,偶然このベンチャー企業と出会い,その会社の製品を積極的に購入することを通じてこの会社を育て国産化に成功し,最近ではその会社総売上の80%を日立が買っていたこと。それがドルショックという世界的景気混乱の中で,日立の購入が大幅に減少し経営が苦しくなっていること。そこでこの会社を育てた立場の自分に,社長から直接転職の誘いがあったが,この会社の経営姿勢が好きで興味はあるものの,高卒の自分を大学教育までしてくれた日立を飛び出すわけにはいかないと断った」などと正直に説明した。その結果,「君が本気で希望するなら転職を許可しよう。しかしながら年商以上の銀行借金を抱え,今にも倒産しそうな会社だから,日立はやめずに籍を残し,倒産したら日立に帰ってこい」との条件つきで許可が出た。私は,この会社は資本的つながりも無い会社だから,転職2.7 現地企業起こしにアメリカへ・・知識も経験も無く,言葉さえも全く話せないで単身渡米ンが至る所ニョキニョキと立つ砂漠の中。カウボーイ,カウガール達が,屋外にある巨大なバーベキュー炉で焼いて持ち込む巨大な焼肉が,テーブルの上に置いたお盆のようなお皿からはみ出す。それを砂漠に沈む真っ赤な太陽を眺めながらかぶりつく。とにかく広大で巨大なアメリカは,すべてにおいてスケールが違う。「日本はよくもこのような国と戦争したものだ。無知ほど怖いものは無い」という実感であった。 私はこの時の体験から,社員には出来る限り若い内に異文化体験をさせたいと考え,現在の会社に入社以来すでに20年以上にわたって,レンタカーに乗れる範囲の少人数の社員を,毎年2回,12-3日間のアメリカ体験旅行に連れて行っている。技能と技術 1/2013-38-するなら危険があっても日立を退社してから転職する積りだったが,日立という大企業の,予想外の配慮に驚いた。 しかし転職して1年,企業文化の違いに面食らいながら,未だ立ち直りの兆しも見えない悪戦苦闘の中で,私はこの会社の取締役に選任された。そこで「役員になってまで,自分だけは倒産した時の逃げ場所を確保しているというのは自分の信条に合わない」と日立に退職を申し出た。そして完全に日立の籍から離れて数ヵ月後,オイルショックによる世界的な経済混乱で,経済社会は再び先行き見通しも立たない大不況に落ち込んだ。企業文化の違いに面食らって一向に改革の成果が上がらず,役員会では常に非難の集中砲火を浴びる中での大不況。まさに悪戦苦闘の連続だった。そんな私に対して日立の人達は,すでに退社しているにもかかわらず,暖かいアドバイスなどの支援をしてくれた。そしてこの会社へ転職して6年後,工場の生産性は10倍にもなり,会社は見事に立ち直った。 1979年,会社が元気になったある日,善意だが超ワンマンである社長に呼ばれ,次のように告げられた。「ハイテク技術をさらに磨くこと,さらに広いハイテク商品マーケットを求め海外進出をする。進出先はアメリカで,君がその担当者として直ちにアメリカへ行け」というもの。私は英語が最も苦手。会話など全く出来ないだけでなく,読むことさえほとんど出来ない。会社つくりの知識も経験も無い。あの日立時代に上司からアメリカ出張を命じられた時,海外出張規程に定めた英検2級以上の資格を持っていないことで,総務部門から海外出張まかりならないという横槍が入った経験さえある。それなのに,この会社はすでに40歳の私に会社づくりに行けという。「一体何故私が?」という質問に,「君は日立時代に当社製品の使い方を開発してくれた。この会社では工場長として,製造の仕方も知っている。両方共わかる者は,君以外に当社に居ない」という。そして航空券を手配し,3,000ドルの現金と

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