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2.4 すばらしい社内教育への出会い2.5 初めてのアメリカの二人は東工大卒,東大大学院修了。職場の先輩達も東大,京大,阪大,東北大卒,主任は九大大学院修了,課長は北海道大卒という,旧帝大卒ばかり。どんな大企業にでも入社できる大分工業高校卒などとうぬぼれていた田舎者に,「これが大都会だ,これが一流企業だ」という社会の広さ,すごさ,田舎者の無知を実感させられた瞬間だった。そして給料だけでなく,生活空間である独身寮でも,大卒は気密の良い鉄筋一人部屋,高卒は隙間風も吹き込む木造4人部屋という,学歴による処遇の差を思い知らされた。しかもコンピュータ関係の仕事は,携わる者皆が初めて取組む仕事。学びながら,調査研究しながらの試行錯誤,悪戦苦闘で連日連夜の残業続き。深夜の帰寮も珍しくなかった。それでも日本の将来にとってきわめて重要な先端技術開発にかかわっているという使命感と充実感に支えられ,苦労をものともせず皆よく働いた。 一方で初の親元を離れた寮生活に,時々故郷や親兄弟が思い出され寂しくなった。そんな時決まって行くところがあった。それは窓の向こうに東海道線の電車が見えるトイレだった。そこに行けば,一日一本,東京駅午前11時発大分方面行,唯一の急行列車‘高千穂号’が見える。幾度となく「あれに乗れば懐かしい大分に帰れる」と思ったものである。 そうして一年経ったある日,日立は社内教育として大学並教育を目指した工業専門学院の開校を発表した。専門科目は東工大,文系科目は横浜国大の著名な教授陣を社外講師として迎え,学費は無料,学生は全寮制で通学時間はゼロ。社員として給料もボーナスも貰いながら,勤務時間と同じ毎日8時間の授業。もちろん社員だから春休みも夏休みも無い。当時の貧しさから,学力は有っても大学への進学が出来ず,高卒として入社した多くの社員はもちろん,入社後夜間や通信教育を通じて大学教育を学んだものの社内では大卒並処遇を受けない人達も,皆受験勉強に走りこの入学試験に殺到した。就職時期待した社内教育にやっと出会ったにもかかわらず,毎日の残業続きで受験勉強時間がままならない私は入学をほとんど諦めて居たが,入学試験結果発-37-表を見ると合格者名簿の中に自分の名前があった。電子工学科は,全国にある日立全事業所からわずか40名の入学。学生には最年少の私たち20歳が居れば,最高齢者は27歳。流暢に英語を話す人も居る。受験勉強不足の私はそのすごい学生達に圧倒され,授業についていけるかどうか心配しながらも,とにかく夢中で勉強した。そして卒業が近づいたある日,教務室に呼び出された。これは落第に違いないと覚悟して教務課長の席に行った。そこで告げられたのは意外にも,「この学校に研究科を設け,クラス当たり二人だけ進学させるが,その内の一人として君を選ぶ」というもの。その結果,この学校には態勢整備はせず,一人は東工大,私は東大の著名な教授の研究室で教授に師事,大学院生達と接しながら,テーマを持って研究生活をすることになった。こうして通学費から授業料まですべて日立負担で,あの中学時代にあこがれた大学で学ぶ機会を与えられた。貧しさ故に進学を諦め,就職しては学歴差に打のめされ,そういう悪戦苦闘の最後にすばらしい機会を与えられ,だからこそ一生懸命に勉強した。そのことに満足するとともに,古き良き時代の大企業に心から感謝したものである。 学業を終え,再び元のコンピュータ開発設計部門に戻った。そんなある日,入荷が滞った輸入部品買い付けの為,購買担当課長がアメリカへ出張することになった。私はその技術的支援役として同行するように,上司である設計部長から海外出張命令が出た。30歳にして初の異文化体験は,ただ驚きの連続であった。まずその大陸の巨大さ。西のサンフランシスコから東のボストンまで大陸を横切る飛行時間は,太平洋を渡る時間の半分ほどもかかる。上空から見下ろす地上はどこまでも荒れた砂漠のように見える。2月のボストンは大雪だったが,南のフロリダに飛んだら,始めて見るビキニ姿の女性がホテルの屋外プールで泳いでいた。テキサスの会社を訪問したら,金網のフェンスで囲った広大な工場敷地の入り口では,拳銃を腰につけた守衛がデンと椅子に構え,こちらをじろりと見る。夕食のため訪問先の車で案内されたレストランは,巨木のようなサボテ若者達に伝えたい

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