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2.私の歩いた道2.1 生立ち2.2 就職2.3 社会人としてのスタート「リスクの多い人生だった」かもしれない。しかしながら私の人生は「実にバラエティに富んだ,思い出多く楽しい人生だった。その人生に悔いはない」と言える。そして今も楽しく生きている。 この寄稿は,大人の背中の一例として私の生きてきた跡を振り返り,そこで学び気づいたことなどを纏めて提供するもので,次代を担う若者達にとって社会や人生を考え学ぶに当たってのキッカケや一助となり,同時に,若者達を指導育成する立場の方々にとっても参考になれば幸甚である。 1939年,私はあの太平洋戦争勃発直前,大分県の片田舎,町部から徒歩で30分以上も山道を登った,狭い平地を24戸で分け合い細々と生計を立てる集落の貧農で,10人兄弟姉妹の下から2番目,3男として生まれた。敗戦の翌年に国民学校(小学校)へ入学したが,新入生と言えども学生帽はもちろんのこと,ランドセルも学生服も買って貰えず,履物は兄や姉達が自宅で取れた藁で作ってくれた藁草履を素足で履き,真冬には霜焼けやあかぎれで足の指を真っ赤にしながら,石ころでゴツゴツした山道を1時間近く歩いて通学した。日頃は何も買ってもらえなかったが,正月が来ると,時には足袋,時には下駄などを買ってくれた。この一年にたった一回のことで幸せを感じ,心をわくわくさせながら,毎年首を長くして正月を待った。たまに親が要求を聞かないと切れてしまう現在の,この豊かな時代の子どもたちに比べて,一年に一回の小さなことでも喜び,幸せを感じる事が出来たあの時代の子どもたちは,貧しくても不幸ではなかったと言えよう。貧しい時代に貧しく育ててくれた親兄弟に感謝したい。 そうして中学校に進み高校進学の準備が始まった頃,私は進学高校に進み東京の大学を目指すことに決めた。ところがこの話を聞いた歳の離れた次兄に「子だくさんで高校にすらやれるかどうかわからない貧しさの中で,普通高校を経て大学に進学するとは何事か!」としかられた。日頃の生活状態から家技能と技術 1/2013-36-が貧しいことは十分知っていたが,学校に進むことで親が苦労するということには全く気づかなかった。その場で普通高校ではなく職業高校に進学し,一日も早く就職して家を離れ,親の負担を軽減することに決めた。そこで,当時この学校を卒業すれば日本のどんな大企業にも就職できると評判の県立大分工業高校電気通信科への進学を決め,厳しい入学試験を突破して入学した。通学には駅までの山道徒歩や,窓を開けると煤煙で真っ黒になる蒸気機関車に引かれる汽車で,片道2時間もかかった。 高校3年,いよいよ就職の時期を迎えた。「もっと勉強をしたい。しかしこのまま大分に残ったのでは二度と勉強の機会は無い。ここまでは親のお世話になったが,これから先は自分の力で勉強するしかない。そうだ,就職は都会へ行こう,大企業へ行こう。都会なら勉強のチャンスが,大企業なら社内教育制度にめぐり会えるかもしれない。日本のどんな大企業にでも就職できると言われるこの学校だ。」そこで自信を持って大都会東京,日本一の大企業日立を受験した。そして幸運にも,全国から高卒男子40人しか採用しない日立の通信機部門工場の入社試験に合格した。九州からの入社同期生は佐賀県の有田工業高校電気科卒業生と二人だけだった。親元を一度も離れた事のない自分にとっては大変な決断だった。こうして未だ18歳の1958年4月,「生き馬の目さえくり抜くような怖い東京に出て行くのか?」と心配する母親の元を離れることになった。当時,大分から東京に行くというのは,今の外国に行くより遥かに大変な別れだった。 どんな大企業にでも入社できる高校を卒業したという自信と,日本一の大企業日立に入社したという期待に胸を膨らませ,入社した横浜市内にある日立の通信機関係専門工場で,学校で勉強した電気通信関係の仕事が出来ると期待し配属発表を待った。ところが配属されたのは,驚いたことに学校で習ったことも,聞いたことさえも無い,社内でも最先端の技術開発部門コンピュータ設計課。しかも同期で配属された新入社員3人の内,高校卒は自分だけ。他

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