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図2 於鹿鳴館貴婦人滋善会の図技能と技術 3/2012始まったことは,前述のとおりである。工業化の創設期には,自分たちの力でいかにして靴が作れるようになるか,西洋の革靴製造技術を学ぶことであった。それを推進したのは旧藩士を中心にした人たちであり,技術習得に指導的役割を果たしたのが,ほかの産業と同じように西洋からの人たちであった。 明治時代初期の人たちの一般的履物は,草履,下駄,わらじなどであったが,近代化を早急に進めなければならなかった陸軍や海軍などでは,国産化した軍隊用の靴の必要性に迫られていた。 明治の鹿鳴館時代ごろから徐々に一般の人たちにも,革靴が浸透していったことも前述のとおりである(図2)。 そのころの靴製造に携わったのがいわゆる靴職人である。1900年初頭(明治33年当時)には多くの靴職人が存在するようになっていた。 当時の靴職人は,時代の先端をいく職業の1つでもあった。革靴は,現在のような既製の革靴は少なく,注文によるものが一般的であったため,手づくり靴を手縫いで行うか,ミシンも使って行うかなどは別として,靴職人の活躍する場が多くあった。職人たちは,熱意をもって自分たちの技能・技術を競い合い,さらなる靴づくり技術への挑戦を怠らなかった。 このころの靴職人を目指す者は,いわゆる徒弟制度のもとで靴職人の親方のもとへ弟子入りし,長い年月をかけて俗に言う親方の技を盗み取る非効率的な方法で,靴づくりの技能・技術や知識を身につけていった。また,職人根性のあまりよくない側面として,自分の職域を守るため,人によっては,あまり技能・技術を教えたがらないこともあったようで-38-あるが,それでも人から人へ,手から手へと革靴づくりの技能・技術は,継承されていった。現在の手づくり靴の技能・技術のほとんどは,デザインは別として明治から大正,昭和へと引き継がれて確立されたものである。 その後は順調に発展させてきた日本の革靴づくりは,戦後の高度成長における大量生産大量消費の社会現象を背景として,昭和35年ごろから急激な変化が起こってきた。この変化は,高性能の接着剤を用いたセメント製法による靴製造技術の開発によるもので,靴の大量生産が安価で行われるようになったからである。 これ以前は,革靴は誂えるのが一般的であった。手づくりされた靴を長年履き,傷んだら修理をして履いていた。大量生産による安価の既製靴の出現は,修理がききにくい靴を,はき捨てにする履き方へと変化させてしまった。 大量生産による安価な靴の出現により,手づくり靴製造事業者が廃業に追い込まれ,靴職人の仕事が激減してしまった。これは,手づくり靴を作る工程が大きく分けてデザインおよびパターンの工程,裁断の工程,縫製の工程,底付けの工程などと多く,1人の職人が細部まで丁寧に作り上げていくため,製造に時間がかかりその分価格が高くなることが,その一因である。また,これらの全工程を1人で完全に行える靴職人は,熟練の靴職人であり,このような靴職人はそう多くはいないし,簡単には育たないのが実情である。 こんな状況がしばらく続いたが,最近,手づくり靴を製造する事業者などにとって朗報になる現象が起きている。靴職人を目指す若者が増えてきていることである。手づくり靴の需要の激減により,靴職人の減少と高齢化により,製靴技能・技術の継承も危ぶまれていたからである。 手づくり靴を製造するための技能・技術を指導する各種学校やそれに類する指導グループ(工房)が多く存在するようになり,たくさんの受講生を集めている。そこで学ぶ多くの者は,靴職人を目指し手づくり靴の製造に係る技能・技術と知識を習得するため,1年から2年程度をかけて実学一体のカリ

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