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■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■図1 岩手県「気仙」地域技能と技術 1/2012(1)「気仙」地方と「気仙大工」 東日本大震災では、岩手県南部の沿岸部も甚大な被害を受けた。この地域は古くから「気仙」地域(旧気仙郡、現在は大船渡市、陸前高田市、住田町で構成)と呼ばれ、一心同体の歴史と文化を持つ(図1)。 大津波によって街の中心部や沿岸漁村が甚大な人的・物的被害を受け、出稼ぎ大工として全国的に著名な「気仙大工の里」も、多数の伝統建物が流失、工務店や職人、訓練校が被災し、気仙の伝統文化の継承が大きな危機にある。 筆者らは、震災前から何度かこの地域に出入りして来たことから、当地域の復興応援の一環として、気仙大工の伝統を継承すると共に、気仙の市民が集い新たな文化の創造をめざす「(仮称)気仙学校」の立ち上げ構想を現地に提唱し実現をめざしているので、概要を報告する。 この構想は、地域の未来を拓く「ひとづくり」を目的とするが、実際の仕事との連動が不可欠なことから、復興まちづくり等の「仕事づくり」と連携し、既成制度を越えた新たな学校スタイルを追求するものである。 この地域は、平安初期の『日本後紀』に「気仙郡」として地名が登場するように、古代(海の幸や塩を内陸に運ぶ「塩の道」、平泉の黄金文化を支えた「産金遺跡」等)から、中世、近世(仙台藩、「気仙杉」とソマ師、北前船を作った「気仙船大工」等)、近代(出稼ぎ大工等)へと長い歴史を持っている。 平地が少ないため農漁業は小規模で、出稼ぎを江戸期から始め、気仙大工の出稼ぎ範囲は、鉄道が通ってからは、東北から、北は北海道、樺太(戦前)、南は関東までに及び、出稼ぎ先へ定着する人、戻って来る人等様々であったと言う。 彼らは各地に著名な建物を残す一方、戻る時には「故郷に錦を飾る」気持ちで、修得した技量を披露し、技を競い合った。そこから、人と同じことはやらない、独自の創意工夫を重んじる進取気鋭の精神が生まれたという。 彼らの卓越した技量は、寺社から民家まで、彫刻や建具まで、何でもこなす所にあった。独特の木組み(巨大な入母屋屋根、太い骨組み、長大な桁、何段もの重ね梁、大きな火打ち梁/枕梁、持ち出し式のせがい造り、反り軒、扇垂木等)の他、豪快で繊細な「気仙左官」の技も多く見られた(図2)。 大工の出稼ぎは、高度成長期まで、半農半工の季節出稼ぎとして盛んだったが、1973年オイルショック以降激減し、現在は通年専業型の「型枠大工」が主と言う。 地元では出稼ぎをやめてから技量も低下、金物・1.はじめに2.気仙地域の概況職業能力開発総合大学校東京校 秋山 恒夫−12− ■■■■■■■震災復興と職業訓練の取り組み❸被災地の未来をになう〈ひとづくり〉―〈気仙〉の伝統を未来につなぐ「(仮称)気仙学校」の実現をめざして―

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